(そうだよ、なんでボク気付けなかったんだろ……っ!)
 屋敷内に戻ったイオは裏手に回り、螺旋階段に足を掛けた。恐怖で動かない頭を必死で巡らせて、一段飛ばしで駆け上がる。
 アクセサリーハウス 『幻想曲』は二階と三階が従業員寮となっている。二階が男子寮、三階が女子寮だ。イオは自宅から通っているから使用していないが、従業員が今以上に増えても良いよう部屋数はそれなりにあるし、結婚にあたって退寮した者がいたから空き部屋も存在している筈。
 その名の通り、当然其処は男子禁制だ。
(寮に逃げ込めば……っ)
 シキが解毒剤を持ってくるか、デュラシアの薬の効果が醒めるか。とにかくデュラシアが正気に戻る当てが付くまで引きこもっていればいい。逃げ込んでさえしまえばイオの勝ちだ!
「イオイオ見つけたぜキェエエーーイ! もうそろそろ観念しようぜヒャッハァ!」
 背から奇声まじりの叫び声が聞こえてきて、イオは小さく舌打ちをした。紅虎大砲はそんなに効果がなかったようだ(実際はそれ以前の問題だったわけだが)。
「追いかけっこはもうおしまいちゃんよ!」
「そうはいかないのだよっ!」
 デュラシアが力強く叫び、三段飛ばしで駆け上がる。デュラシアが二階と三階の中間地点に到達して丁度、イオは三階女子寮の廊下を踏みしめた。
 此処から先は男子禁制。
 気付いたデュラシアの足が一瞬止まり、イオを目視出来ても近付けない状況になる。
 ――プランでは、その筈だった。
「なんで来るのおおおお!?」
 デュラシアの勢いは止まらない。男子禁制のタブーを破ってイオの元へと真っ直ぐ駆ける。イオの表情から余裕の色が無くなった。
「おかしいでしょ、此処女子寮! 男の子不可!」
「愛の前じゃあ規則なんて無意味だぜぇぇえええ!!」
「店長! キミ店長だよね! いっちばん護らなきゃいけない人だよね!?」
 女子寮にさえ入ってしまえばデュラシアの理性が働く……それに頼っていたのは確かで、だから己の逃げ場が完璧に閉ざされてしまったことに今更気付いた。詰めが甘いとはこのことだ。
 狭い階段、落下防止に設けられた柵、人二人が横に並べるだけの幅しかない廊下。三階への出入り口と呼べるものはイオとデュラシアが通ってきた螺旋階段だけだ。柵を越えて飛び下りれば一階に着地することは出来る。しかし二階ならともかく此処は三階。三階から飛び下りて、無事に着地出来るだけの身体能力はイオに無い。
 デュラシアはあっという間にイオに追いつき、今度は間違えることなく彼女の細腕を捕まえた。
「ひっ」
 全身の毛が逆立つ。振り払おうとするもそれは叶わず、身体を反転させられたと思えば柵側へ追いつめられた。イオの背が柵にぶつかり、たくましい腕が両側を包囲する。
「……っあー、やーっと捕まえたわ……」
 手すりを握りしめ、やっとイオを手中に収めたデュラシアは深い深いため息を吐いた。額は汗ばみ息も荒い。それはイオも同じで、冒険者といえ二人の体力は限界に近付いていた。数時間に渡る鬼ごっこ、途中で休憩を挟んだからと云っても肉体、精神的疲労は計り知れない。
「手間掛けさせんじゃねぇよ、イオイオ……」
 こんなに好きなのに。御前が好きだって、力の限り伝えてぇだけなのに。
 視界いっぱいにイオを映して吐く台詞は、甘く切ないものばかりだ。イオを執拗に追い回す原動力は“イオが好き”、ただそれだけ。とはいえ、それをイオが受け入れられるわけもない。
 恋人の有無もそうだけれど、デュラシアがイオに向ける感情は紛い物。彼が本来向けるべき妻への愛が、其の儘イオに移ってしまっているだけ。
 本来この感情は、自分に向けられて良いものではないのだ。
 あと本音を云うならば、
「ラシアいい加減にしろなのだよ! 気持ち悪いの!」
 どうしたってこの一言に尽きるわけで。
「気持ち悪いってどういうことよ! イオイオが好きってそれの何処が気持ち悪いっていうのさね!」
「だからも何も無いのっ、ラシアがボクを好きとかありえないんだってばその逆もしかり!」
「んまー! イオイオ俺の純な気持ちを意地でも認めねぇつもり!?」
「ラシア眼ぇ醒ましてなのだよ! その気持ちは残念ながら薬のせいで――」
「――ッ、」
 イオの言葉にデュラシアが小さく舌打ちをした。彼の舌打ちを聞くなんて初めてで、違和感から生まれていた恐怖とは別種の恐怖が沸き上がる。
 薬なんかじゃねぇよ。吐き捨てるように呟いた彼の顔が近付いてくる。
「ずっと傍にいるって、云ったのはイオイオだろ」
 鼻と鼻が触れ合うギリギリの位置。怒っている筈なのに、泣きそうな声を出したデュラシアの表情が、十数年前の記憶にある表情と重なった。


 ――ボクはまだ子供だから行けないけど。
 ――大きくなったら、会いに行くよ。


 ――そしたら、ほら、


 ――ずっと一緒だから、淋しくないよ。


 森の中、偶然出会ったデュラシアと交わした約束未満。小さな少女の小さな宣言。
「イオイオ、云っただろ。一人にさせねぇって。傍にいるって」
「……それは、そうだけど」
 家を出たイオは宣言通りデュラシアに会い、それからずっと傍にいた。
 物理的な距離では無い。
 心の距離だ。
「……その時のことを盾にするつもりはねぇよ」眼を伏せる。「でも、気持ちを否定はしねぇでくれ」
 デュラシアの言葉に息を呑む。一拍を置いて、イオは首を横に振った。
 その言葉が、少しだけ許せなかった。
 デュラシアを許せないのではなくて。彼にその台詞を云わせてしまった、惚れ薬が許せなかった。
 互いが互いを救い、互いが互いに救われた。その時の記憶は、出会いは、仮初の恋心で汚して良いものではないのだ。
「ボクもね、ラシアが好きだよ」
 けれども、
 だからこそ。
「ボクはラシアを愛して――」
 ――いない、と断定する筈だった声は、荷物が床に落ちる音で掻き消された。
「ん?」「ふぇ?」音の出所に視線をやれば、陽溜まりの福音・ユウリ(a09611)が呆然とした表情でイオとデュラシアをじっと見つめている。足元に転がったのは小さな茶色の小包。短期入団中の彼女は部屋を借りていないから、誰かへの届け物だろう。
「………、…っ、」
 ユウリは何かを云おうとして、ぐっと息を詰まらせる。親友のおかしな様子にイオは首を傾げ、同時に自分が今どういう状況かにやっと気付いた。
 人気の無い場所。イオの背に柵。両隣りには手すりを掴むデュラシアの手。そしてデュラシアがイオに愛を囁いている。
 ――事情を知らない人間からすれば、どう贔屓目に見たって浮気現場でしかない。
「イオさんには、お兄ちゃんがいるのに……」
 ユウリの声が微かに震える。零れ落ちた言葉は聞き逃してしまうのではないかと思うほどに小さくて、けれどしっかりイオの耳朶に響いた。
 ユウリはイオの親友であると同時、イオが現在付き合っている恋人の実妹だ。彼女からすれば、兄の恋人が口説かれている現場に遭遇してしまったことになる。
 尊敬している彼を信じたい。
 そう思いはするが、哀しいことに状況証拠が揃い過ぎていた。
「イオさんとデュラシアさんが…そんな……」
「ユウリ落ち着いてなのだよ、あのねこれは」
「まさか、隠れてお付き合いしていたなんて……っ!」
「薬のせいで――んぅ?」
 揃い過ぎていた為に、ユウリの誤解が斜め四十五度の方向に飛んでいく。
 雫を瞳に溜め始めたユウリに慌てたイオが、デュラシアの腕越しに冗談じゃないと叫ぶ。
「待ったユウリ! すっごく誤解なのだよボクもラシアも付き合ってないの…ていうかユウリがそれ一番よく解ってるでしょ!」
「…だ、だって、イオさん…デュラシアさんに、“ボクもキミが好き”って……こくは、…っ」
「ああすっごく変なとこだけ聞かれてる! ってちょ、待っユウリお願い泣かないでー!?」
「は、そうだよねイオイオ俺のこと好きって云ったよね! やっぱ両想いじゃんマジで嬉しいんだけどー!」
「ラシアは黙っててなのだよややこしくなる!」
 空気を読まないデュラシアを一刀両断、誤解を解きに掛かる。デュラシアの誤解を促進させる言動を例にしながら、イオはユウリにこれまでの経緯を説明した。実際にデュラシアの異常な様を眼にしたことも大きく、素直な彼女は涙を拭いながら納得する。
 イオはその場でため息を吐いた。魂が若干抜け出ている気もする。一歩間違えたら絶交と別れの危機だったのだ、もしかしたら今日一番疲れたかもしれない。
「ご、ごめんなさい……」
 身を縮こまらせるユウリに、気にしないで、と手を振った。元はと云えば誤解されるような体勢だった自分たちが悪いのだ。兄の恋人且つ己の親友が不純を働いていたとなれば、ショックを受けるのも仕方ない。
「ユウリちゃん、悪ぃけど俺とイオイオの愛の語りを邪魔しないでくれるかしら」
「ユウリ。今ラシアこういう状態だから。ボク浮気じゃないから其処だけ宜しくなのだよラシア離せってば」
 デュラシアの顎を押しやって淡々と説明するイオに、ユウリは苦笑いしか返せない。この二人がじゃれ合う姿はよく見るけれど、こんなにバイオレンスだったっけ?
 仲良きことは美しきかな。全ては薬のせいだと片付けた。
「あぁ、でも……シキさんが仰っていた意味が解りました」
 ユウリが落とした荷物を拾い上げる。翡翠の双眸がイオとデュラシアを射る。
「……びっくりして落としちゃいましたけど……中身は大丈夫みたいですね」
 手に持つ茶色の包み紙を丁寧に開いていけば、中には薄汚れた白い箱。緩衝材が大量に入った中央に、ダイヤ型の小瓶が収められていた。小指と同じくらいの大きさしか無い瓶の中には、金色の粒子が舞った藍色の液体が入っている。
「これ、イオさんに渡してって云われたんです」
「はぅ、ボクに?」
 ユウリは優しく微笑み、頷いた。


「はい、イオさんに――シキさんから」


 シキからイオへの届け物。
 それの意味するところはたったひとつ。
「解毒剤!」
「多分、私もそうだと思います」
 ユウリによれば、シキは大分前からイオを探してあちこちの部屋を訪ね回っていたらしい。イオが動き回っていたせいで擦れ違いが続いてしまい、ようやく足取りを掴んだと思えば最後の目撃情報は上の階へ行ったとのこと。
 二階と三階に寮しか無いことはシキだって知っている。困って立ちすくむシキの傍を、女性の彼女が通りかかったのは僥倖だった。
「行き先が女子寮だと、オレは行けないから……って」
 今のイオさんに絶対必要なものだって、私にこれを託してくれたんです。
 ユウリの言葉にイオの表情が明るくなる。これでデュラシアは元に戻るのだ。嬉しくない筈がない。
 片手でデュラシアを抑えたまま、腕越しに小瓶を受け取った。確かめるように小瓶を握りしめる。
「ラシア良かったね、これで元に戻れるのだよ!」
「んん? イオイオ何云っちゃってんの? 俺はいつだって正常よ?」
 迫ろうとするデュラシアの顎を押しやったまま、イオは夜空に星を溶いた色の液体を眺めた。怪しい色ではあるけど、元々の惚れ薬自体怪しい色だったんだから飲ませたところで問題無いだろう。
 蓋を外そうと、イオは片手をデュラシアの顎から外し――


 さて、此処で理科の問題です。
 これまで前へ前へと進もうとしていたデュラシア。それを押し留めていたイオの腕がいきなり外れたら、デュラシアの身体は一体どうなるでしょうか。


「うぐッ!?」
「イオさん…っ!?」
 勢いの止まらぬデュラシアの身体が前のめり、柵を背にしたイオに覆い被さった。
 柵はイオの肩まで高さがある。下に落ちはしないものの、金属製の柵が薄い肉に食い込んだ。柵はイオの肺を圧迫し、呼吸が碌に出来なくなる。
 かはっ、と咳こめばデュラシアとユウリの顔色が悪くなった。
「うおお!? イオイオごめん! 大丈夫か!?」
「……だ、だいじょぶだから早くどいてなの……っ」
 首がえび反り状態なだけでも辛いというのに更にデュラシアの体重が加わって、背骨が逝ってしまいそうになる。ユウリの助けを借りてすぐに身体を起こしてもらい、何度か呼吸を繰り返してようやく人心地がついた。首を軽く一回転させてみる。特に問題無さそうだ。
「イオさん、無事ですか…?」
「んー、なんとかー」
 ユウリの心配顔に苦笑いで答える。親友の無事を確認したユウリはホッと安堵の息を漏らした。大丈夫の言葉を聞いても、潰してしまった張本人であるデュラシアは涙目だ。狼狽するデュラシアにイオが再度言葉を掛ける。
「ラシアも。ボクだいじょぶだってば…、…まあ、かなり痛かったのだけど」
「それじゃ俺の気が済まねぇよ……・そうだイオイオ! 俺が責任もって痛いとこ舐めてやっから一寸脱いdぐぶぁぁあああ!」
 武器は無くてもアビリティは、だ。
 ゼロ距離でエンブレムブロウを腹目掛けて叩きこんだイオに苦笑いしつつ、ユウリはあれ?、と首を傾げた。
 イオさん、と声を掛ける。
「さっきの小瓶……どうしました?」
「え。小瓶は手に……」
 イオの手が空を掴む。
 すかすか。
「……」
「……」
「嘘でしょ!? さっきのでボク落とした!?」
 がばっとイオが柵に身を乗り出した。柵の下に落ちてしまったならそれは一階まで落ちて行ったということで、つまりその場合小瓶は確実に割れてしまっている!
 シキが用意して、ユウリが持ってきてくれた薬が駄目になったらデュラシアを元に戻せない。市販ならもう一度用意することも出来るだろうが、シキは惚れ薬を“闇市”で購入したと云っていた。イオも一度しか行ったことはないが、闇市は希少価値が高い品、または一点ものが集まる場所。もう一度手に入る確率が百パーセントとは限らない。
「あ……」
「イオちゃん無事かいー?」
 涙目で覗きこんだイオは、一階に見慣れた三人を発見した。
 一人は今回の事件を引き起こしたシキ。それから、


「イオイオー! ボクちゃんとキャッチしたよー! 褒めてー!」
「無事でよかったですな。私も肝を冷やしましたぞ! むん!」


 灰色のおかっぱ頭をぴょこぴょこ上下させて笑う少女、ねむねむ人形ひめ・マサキ(a28599)と、その隣で見事なポージングを決める中年、筋肉演奏家・アリアン(a26059)だった。
 言葉通り、マサキの手には藍色の小瓶がしっかりと握られている。
「よ、良かった……! ホントに良かった……!」
 無事な姿に思わずその場で座り込む。脱力したイオの頭を、お疲れ様でした、とユウリが撫でた。その後、未だゼロ距離エンブレムブロウからの衝撃に起き上がってこないデュラシアに駆け寄り、医術士の彼女がヒーリングウェーブを掛け始める。



 ユウリに気付かれないよう、イオは小さくため息を吐いた。
『――否定しねぇでくれ』
 一生、黙っておかねばならない。


 例え一瞬だろうとも、頷き掛けてしまっただなんて。


タリのホンネ)






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