一方その頃。
「はふ……も、だめ……」
 フェレクとデュークが巻き込まれているとはいざ知らず、デュラシアの視界から逃れたイオは厨房の前にいた。
 食材を扱い、刃物を使用する厨房内にまで争いを撒くわけにはいかないから中に入るつもりはないけれど、誰かしらは必ずいる筈。此処での目的は栄養補給だ。
 散々駆けまわってお腹がすいた。一口でいい、甘いものでも口にしなければ生き残れない。
 ふらふらとした足取りで厨房の扉に手を掛ける。
 扉を開ければ、甘い香りがイオの鼻腔を擽った。
「うゅ? ……イオちゃん?」
 紫水晶の瞳をくりっと大きく見開いて。ケーキをデコレートしていた光翼纏いし気弱な天使・ミア(a09735)は小さく友人の名を呼ぶと、パレットナイフをそっと流しに置いた。ホイップクリームを丁度塗り終わったところのようで、彼女の目の前には真っ白なホールケーキが置かれている。
「ミアちゃーん……」
 今にも死にそうな声を出す友人に慌てて駆け寄る。イオはへにょりとミアに凭れかかり、お腹がすいたと一言漏らした。云うと同時、くぅ、と小さくお腹が鳴る音がする。
「一寸待って下さいね……♪ おやつにと思って、焼いていたクッキーがありますから……♪」
 小さく微笑んでイオを手近な椅子に座らせたミアは、てきぱきとクッキーを皿に盛りつける。クッキーを食べるなら喉が渇くだろうと、何も云わずに紅茶の用意もするミアに有難みを感じながら、イオは耳をそばだてた。
 足音は聞こえない。デュラシアの声も聞こえない。少しなら休憩しても大丈夫そうだ。
 まだ完全とは云えぬものの緊張感から解放されて、イオの身体がぐてっと前のめる。肩に圧し掛かる疲労感が半端無い。
「はうぅー、ミアちゃんごめんねーもーほんっとシキさんの馬鹿ぁ…」
「ぅ……? シキさんが、どうかしましたか……?」
 そういえば、先程ホールが騒がしかったようですけど。続けるミアに、イオはこれまでの経緯を説明する。シキが闇市で惚れ薬を購入したこと。その惚れ薬をデュラシアが飲んだこと。飲んでから初めて見た人間を好きになってしまうこと。そしてその好きになられてしまった人間が、自分であるということ。
 不思議な話に、ミアはただ感嘆のため息を吐くばかりだ。
「じゃあ、イオちゃんはデュラシアさんから逃げているんですね……」
 途中だったケーキの仕上げに入りながら、ミアは道理で騒がしかったわけだと納得する。此処は毎日がお祭り騒ぎのようだから特に疑問を感じてはいなかったけれど、聞こえてくる声はいつもと毛色が違う風に思えたから。
「チロルにも悪いことしたのだよー…」
 身代わりとなった子犬の少女には申し訳ないが、彼女がデュラシアに抱きとめられたとき、心から安心した。自分が逃げることで他人が怪我を負うなんて、駄目過ぎる。
「ラシアとかシキさんとか、丈夫そうな人だったらいいかなって思うのだけどねー」
「イオちゃん…それもどうかと思います、よ……?」
 イオの言葉に控え目な苦笑いを零す。「大丈夫、ちゃんと相手は選んでやってるから!」、とイオは云うが、そういう問題では無い。
「それにしても」ミアが云う。
「本当に、薬のせいだけ、なんでしょうか……?」
「……へ?」
 訊き返すイオに、だって、とミアが続ける。
「飲んでから、初めて見た相手を好きになる……んですよね。……んっと……それって、初対面の方相手でも有効なんでしょうか……」
 イオがデュラシアにぶつかって、デュラシアはイオを好きになった。けれど、それが例えばまるで知らない相手だったとして。そうしたら、デュラシアはその人のことを好きになったのだろうか。
 口に運んでいたミルククッキーがパキリと軽い音を立てた。ミアから紅茶を受け取り呑み下す。
「闇市の薬だもん、そーなると思う、んだけど」
「人の心って、そんな簡単に動くんですかね……」
「はうー……でもそれだとラシアはアヤさんがいるにも関わらず、ボクのこと好きだった、ってことになるよ?」
「……それは……ぅゅ、……」
「ごちそーさまなのっ」
 考えても仕方ない。そう打ち切ってイオはぐんと伸びをする。体力回復出来たことだし、また逃走を続けなければ。
「じゃね、ミアちゃんありがとなのっ! ラシアが来たら上手いこと云っといて!」
「はい、頑張ってくださいです……♪」
 にこにことした天使の微笑みに見送られ、イオは逃走を再開した。
 次に目指すは中庭だ!


 ――イオが厨房を出てから少しして、天使の羽を生やした少女がやってきた。
 鼻歌交じりに厨房の扉を開けて、彼女はミアに探し人の居場所を問う。
「ミアさん、デュラシアさんとイオイオ見なかった〜? 今鬼ごっこ中ってチロルさんから聞いたんだけどっ」
「……? イオちゃんなら、さっきまで此処にいました、けど……」
 何かあったんですか?
 ミアに問われて、銀髪の少女はにやりと愉快犯の顔をした。

「一寸ね、面白いことになるカナって思って♪」


界を越える前に)






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