今日は厄日だ。
 倖涙花・イオ(a09181)は頬を引き攣らせ、今日の朝から起きた出来事を振り返る。
 夢見が悪いのもあってあまり眠れず、身を起こしたところで毛布に足を取られて転んでしまった。姉さん、と、音に驚いた護涙氷・マオ(a10509)が助け起こしてはくれたけど、打った頭に小さなたんこぶが出来てしまって朝から泣きそうになる。
 痛みを我慢してテーブルに付き、弟が入れてくれたモーニングティーを飲もうとした瞬間、パキリと嫌な音がして持ち手が外れるし、当然お気に入りだった花模様のティーカップは粉々に砕けた。零れた中身はイオのネグリジェに染みを作り、紅茶を身体全体に被ってしまった為風呂にも入り直さなければいけなくなった。
 家で起きたことだけでもそうなのに、勤め先である喫茶兼雑貨屋、アクセサリーハウス 『幻想曲』に出勤すればホールに出た瞬間性質の悪い客に絡まれ、遊びなのか本気なのか良く分からない口調で口説かれる。左手の薬指を見せれば退くかと思ったがソイツはトリモチのようにしつこくて。残念ながら同僚たちは皆他の仕事に掛かりきりで、隅にいるイオに気付かない。
 一般人だからアビリティを使うことも出来ずに苛々が溜まっていき(云い換えれば冒険者ならアビリティを使っても問題無いと考えている為、その客は一般人だから助かったといえる)、異変に気付いた同僚に助けてもらってその場から逃れられたものの、溜まったストレスは消えてくれない。
 占いなんてしなくたって解る、きっと全体運が最悪なんだ。タロットやったら死神が出てきちゃうくらいに最悪なんだ。不幸っていう程のものではないけど、一寸疲れた。
 もう今日は大人しくしてよう。
 ――そう思った矢先に、これだ。


「俺……ッ、俺は! イオイオが! 好きだ!」
「ラシアきもちわるい」


 何云ってるのコイツ。そもそもキミにはアヤさんっていう可愛い伴侶がいるじゃんかホント何云ってるの?
 淡々と、特に表情筋を動かすことなく、イオはコンマ一秒で投げられた告白を叩き潰した。表情と感情がイコールとなっている彼女が此処まで無表情になるのも珍しい。無表情の原因である徹夜明け紅茶王子・デュラシア(a09224)はそんなイオの表情に気付かないのか、真剣な眼差しを向けている。
 とぼとぼ廊下を歩いていたら走ってきたデュラシアにぶつかったのだ。互いに勢いがあるわけでもなかったから拍子に倒れることはなかったが、イオを見た瞬間これだ。彼はベタな状況に酔ってしまったのだろうか? 頭を打ったわけじゃないから、脳が壊れたというのも考えにくい。
「イオイオ……俺、気付いたんだ」デュラシアは色の白い頬を桃に染める。「違う。そうじゃなくて――本当は昔から気付いてた。気付かない振りをしていただけだったんだ」
 アヤちゃんには悪いけど、俺はイオイオが好きなんだ。
(……はれ?)
 そう云ったデュラシアに、イオは眉間の皺を深くする。怒りを覚えたわけではない。覚えたのは疑念だ。
 何度か名の出た愛の抱擁天使・アヤ(a10024)は、デュラシアの妻だ。イオはデュラシアがどれだけアヤを大切にしているかを知っているし、どれだけ愛しく想っているかも知っている。彼は例え罰ゲームだろうと彼女を裏切る真似はしない人間だ。そして何より、イオにも愛しい恋人がいるわけで。
 万一にデュラシアが本気で自分を好きだったとして、それでも彼が略奪愛に走るのは考えにくい。寧ろ相手の倖せを願ってそっと身を引くタイプだと思う。
 真剣な表情で自分の想いを吐露するデュラシアをじっと観察する。特に変わったところは無く、怪しげなアクセサリーを付けているわけでもない。呪いの品を所持しているわけではなさそうだ。
(……改造手術?)
 少し前に退団していった、某診療所の某ドクターが脳裏に浮かんだ。
 ありえそうで怖い。
「イオイオ!」
「はわっ!?」
 デュラシアの顔が迫る。息を呑む。
(は、ぅ……)
 悔しいことに。本当に悔しいことに。
 イオは数瞬、デュラシアに目を奪われた。
 肩よりも長く伸ばした赤銅色は針金のように真っ直ぐで、見た目に反して柔らかく揺れる。指通りが良く、女の子が羨ましがるくらいにサラサラした髪は、イオの密かなお気に入りだった。熱があるのか、やや潤んだ紅玉はサングラスの奥で獰猛な光を宿している。
 通った鼻筋。笑みを形作る薄い唇。滑らかな白い肌。
 デュラシアは世間一般で云う“美形”の部類に入る。それは知っていたけれども――間近で見るとひとつひとつがとても綺麗だ。彫刻は云い過ぎだが、作りは近いと思う程に整っている。無機質だと感じられないのは、男性的な力強さを秘める瞳のせいか。
 見慣れた顔ではあるけれど、こんなに近くで見ることは滅多に無いからつい見惚れてしまった。イオとしては一生の不覚だ。
「イオ、」
 あだ名でなく、デュラシアは少女を生まれ持った名で呼んだ。優しく、愛おしげに、甘える声で……昔馴染みの名をそっと舌に乗せる。二つに結わいた、銀に一滴だけピンクを垂らした色の髪をひと房だけ手に取ると、唇を近付けた。
 瞼を閉じて恭しくキスをする。
 髪を唇から放し、ゆっくりと瞼を開ける。
 デュラシアは眼を細めて、熱い視線をイオに投げた。


「イオの全部、俺に頂戴?」
「ラシアごめんやっぱどうしても無理ぃぃいいい!!」


 ――この二人が、イイ雰囲気になるわけが無い。
 全力でデュラシアの手から髪を引き抜き、肘で鳩尾を殴打してから脇をすり抜けて走り出す。ぐぼっ、という変な音が青年の口から洩れた気もするけど気にしないことにする。お得意のエンブレムブロウを叩き込まなかったのは、微かにあった良心のおかげ。武器が手元に無いのも原因ではあるけれど。
 一瞬残念なことに、確かにきゅんとしてしまったが、いくら顔が良くてもあれはデュラシアだ。彼には悪いが昔からよく知っている男に対してとてもそんな気になれない。
 イオとデュラシアの関係は恋愛も友愛も飛び越えていて、互いが互いを、他者とは一線違う位置に置いていた。そんな二人が今更恋人云々とかになれるわけがないのだ。
 未知の恐怖に反応したらしい、身体の震えが止まらない。
「ていうか本当にどうなってるのだよ…ッ!?」
 デュラシアのあの行動は異常の一言に尽きる。アヤに対してならともかく、何故イオにそれをしてきたのか。
 髪にキスした声音も眼もマジだった。あれは本気でやっている!
「はぅぅ本当に改造でもされたのかnうにゅあー!?」
「おー?」
 曲がり角で人にぶつかり、脱兎の勢いで走っていたせいでイオはそのまま尻もちを付く。視線を上げれば、銀の髪に特徴的な尖った耳。デュラシアの悪友である黒衣・シキ(a15122)だ。
「あれ、イオちゃん。そんなに急いでどうしたのー?」
「シキさんごめんなのだよっ、今ラシアから逃げてるからまた後でなの!」
 よいしょっとイオの手を引いて問い、返ってきた答えにシキの眼が細くなる。聞き捨てならないと云った風だ。
「イオちゃん、今デュラデュラから逃げてるって云った?」
「あ、そうなのだよ、ラシア変になっちゃったの…! シキさん何か――」
 知ってる?、そう聞こうかと思ったイオの視線が、シキの手元に縫いつけられる。イオの視線に気付いて慌てて隠すももう遅い。彼女の眼はよく見えるのだ。
 シキが持っていたそれはフラスコだった。泡立った紫とピンクのマーブル模様の液体が入っており、どろりとしたそれは粘着性が高そうだ。元の量より少し減った状態なのか、フラスコには一本の横線が刻まれていて。
 そしてなにより、
「シキさんシキさん。……ラベル、貼ってあったよね。今のやつに」
「さ、さあ何のことかなー?」
「書いてあったの、ボク見たのだよー…?」
「な、何のことかなー?」
 シラを切ってはいるが間違いない。大量の汗がシキの額から噴き出している。
 イオは見た。この両目は確かに見たのだ間違いない。


 ラベルに書いてあったもの → ≪超強力惚れ薬(一番最初に見た人を好きになります)≫


「メフルのせいかーーー!」
「ごめんよまさか本物だと思わなかったんだよォォォ!」
 思わず苗字で罵ったイオを誰が責められるだろう。闇市で売っていたからネタのつもりで購入したと語るシキだが、そんな言い訳をイオは聞かない。だって本当に、本当に怖かったのだ。デュラシア(の頭)が自分の理解及ばぬ遠くへ行ってしまったようで。
 半泣きになりながらがっくがっくと自分より年上の青年を遠慮なく揺さぶり続け、シキ(の意識)がとうとう遠くへ行きかけた時だ。
「イオイオ逃げないでくれよ! 俺の何が悪かったんだよキェェェエーイ!」
 今最も聞きたくない声が聞こえ、振り向けば般若の形相でこちらへ向かってくるデュラシアの姿。さっきのイケメン何処行った、思わず誰もがそう聞きたくなるくらいの般若っぷりだ。
「はわわわわわ」
「……薬のせいでハイになってるとしても、好きな女の子に対して奇声をあげる男ってのはどーなんだろうねー」
「冷静に解説しないでシキさんの馬鹿ー!」
 ぱ、とイオは両手を放してシキを解放する。今は元凶抹殺よりも自身の身の安全の方が重要だ。
 崩れ落ちたシキを放置して長い廊下をひたすら走る。目指すは従業員控室!
「シキさんっ、解毒剤用意しなかったら奥義10連発なのだからねー!」
 冒険者相手だから出来る恐ろしいことを云い放ち、イオは般若からの逃走を開始した。


 悪友に飲まされた薬によって、偶然ぶつかったイオに惚れてしまったデュラシア。
 惚れられてしまったイオは悪寒と必死で戦いながら、アクセサリーハウス 『幻想曲』の奥深くに逃げ込むが――当然、騒ぎはそれだけで終わらない。

 アクセサリーハウス 『幻想曲』を巻き込んだ鬼ごっこ、スタート。


イを叫ばれはしたものの)






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