紳士面で大抵紅茶を欠かさない。そんな優雅なイメージで捉えられがちな帽子屋だが、実際の住処というのは随分簡素な物なのだ。
 手入れこそはされているようだが、一体幾らで買い叩いたのだか、屋敷を囲う蔦に巻かれた鉄格子は錆が来て、中々に広大な家の中に灯りをきちんと備えてあるのは僅か数部屋のみ。クラウディオ曰く、使うのはそれぐらいで足りているからとのことだが、キサはいつも疑問だった。それならこんな屋敷を構えなければ良い。中に入っても調度品は碌々無くて、入った所の大広間を抜けたすぐ先の部屋にはローテーブルを挟んでソファが二つ向かいあっている。後は壁際に本棚が幾つかあって、それだけだ。
 割合豪奢な城で過ごすことの多いキサには、最低限の灯りしかない仄暗さがどこか慣れない。いつもの通り来客用のソファに腰を下ろしてクラウディオが出てくるのを待っていると、外からの太陽の光も僅かなもので、瞼がとろりと落ちかけた。この家はそう、まるで夕暮れを見送る宵に満たされたような、

 ――ほら、夜や。兎は寝る時間やろ。

 夜を被せた青年の声が蘇る。ぎょっとして目を剥いたキサは、慌てて首を横に振り回して眠気を吹き飛ばした。
 最悪だ、ひとりの時まであいつのことなんか思い出すなんて。頭が狂っちゃったんじゃないか。この部屋には何か特別な魔法がかかっているのかもしれない。帽子屋の気配が沁みついているせいで。
 頬に触れる時わざわざ手袋を外したり、髪にキスした後は必ず撫でて整え直したり。クラウディオの姿を消してくれない、制御を外れた脳を呪っていると、かちゃりと左手から扉を開く音がした。
「待ちくたびれたぞ」
 平静に戻って、キサは言う。流石に室内だからかシルクハットを外したクラウディオは、代わりにその手に女物の帽子を持っていた。鍔の広いクリーム色の帽子には、赤いリボンで編み上げられた美しい薔薇の造花がひとつついている。シンプルではあるが、愛らしいあの姉の魅力を引き立たせるにはあれぐらいがちょうど良いだろう。
 キサとて、“帽子屋”と名を冠するクラウディオの帽子作りの腕とセンスぐらいは買っている。満足げに頷く白兎に、しかし青年は眉を寄せた。
「何を勝手に入っとるんや」
「帽子が今日出来るって言ってたろ。俺が取りに来るのなんて予想出来るはずだし、ちゃんと門のところでフェリスに許可を取った」
「この家の主はチェシャやないぞ」
「家の主人は御前でも、門の主人はあいつだろう」
 さらりと言うのは屁理屈でしかないが、この国は基本的にやった者勝ちだ。法律なんてあったものじゃない。女王の気に障らなければ、何だって在り。
 そして星屑色の猫が友人たる白兎を拒むはずも無い訳で、ち、と舌打ちをした帽子屋が小さく「また躾を考えな」と呟くのを耳が拾った。ソファの背もたれを挟んでキサの後ろに立ち、クラウディオは帽子を白兎の膝の上に落とした。
「注文はこれだけで良かったな」
「ああ、良い出来だ。レイもきっと喜ぶ」
 ――どうかな、キサ。似合う?
 全く同じ顔のはずなのに、レイの照れたような微笑みはとても自分の出来るようなものじゃない。それを見るのがキサの喜びで、女王たる姉の国を富ませるのがキサの幸福だ。だってそうしたらレイはもっともっと笑ってくれる。
「それじゃあ、貰って行く。代金はまた城から届くから」
「おい」
 立ち上がろうとしたキサの肩を掴んでソファにもう一度押し戻し、クラウディオは後ろからその耳に囁きかけた。
「折角来たんやから、ゆっくりして行け。礼儀やろ」
「ゆっくりしてる暇なんて――ッ!」
 先に理解したのは、ぞくりと背筋に走った奇妙な感覚だった。ソファに座ったキサを、背もたれ越しの後ろから帽子屋の腕が抱き締める。そのまま目の前に来た兎の耳の根元に、クラウディオが緩く歯を立てたのだ。音の出所を知るために鋭敏に作られたふわふわとした白い耳は殊更刺激に弱いということを、彼はよくよく了解していたのだろう。
 体の一部を食糧みたいに食まれて、歯の隙間から出てきた舌で撫でられて。気持ち悪くて罵声を飛ばそうとするのだが、喉のあたりに込み上がって来る渦巻くような熱が怖くて声を出せなかった。今唇を弛めたら、きっと情けない声が上がってしまって、クラウディオをますます増長させるって――今までの経験から、知っている。
 一旦耳から口を離し、代わりに手袋越しの爪の先でそこを引っ掻きながら、帽子屋は真っ赤になって堪える兎の顔を覗き込んだ。紫の瞳が冷めっぱなしなことを知り、キサの瞼の下に填め込まれた月が薄く涙を湛えながら睨み返す。
「もっと鳴けや。お前、兎なんやから」
「兎ってのはそもそもそんなに鳴かないんだよ……ッ!」
「つまらん」
 心の底から、と言う感じ。ため息混じりに落とされた呟きにキサは反論したくて仕方なかったが、背中を強引にソファへと押し倒されて、舌を噛むのを防ぐため咄嗟に口を噤んだ。
 クラウディオの細い体がひらりと背もたれを飛び越え、キサの上に覆い被さる。片足は床につき、もう片膝をキサの二本の脚の間に滑り込ませて、飛び越えるための基点にした左手は背もたれについたまま。残った右の掌を大きく開いて、冷たいそれが兎の視界に被さった。
「何されるか見えとるから、予想がついてあかんのかな」
 どうして虹が出来るか分からないから、根元まで行って調べてみようか、なんて子供みたいに純粋な声音で帽子屋が言うのを、紛い物の闇の中でキサは聞く。
 首筋に濡れた感触があった。ぴくりと体を強張らせ、それがゆっくりと胸元へ下りて行くのを感じて黙っている。やけに優しい、それがクラウディオのキスだと言うことは不本意ながら知っているのだ。
「……俺にこんな事して、メリットなんてあるのか?」
 毎朝聞く、ファスナーを動かす音がする。きっと今クラウディオの骨張った指が、キサの肌を味わうのに邪魔な上着を脱がそうと動いているのだろう。
「お前が欲しい。それだけじゃあ不満なんか」
「不満だな。それじゃ理由になってない」
 俺が欲しいって言う、その理由を寄越せと言っているのに。のらくらと帽子屋は逃げようとする。いつだってそんな風な彼を理解出来ない。だから嫌いだ。分からないものは怖い。
 目隠しが解かれる。キサは何度か瞬きを繰り返し、圧迫されたせいで霞んだ視界を元に戻そうとする。
 帽子屋の輪郭がようやく像を結んでくる。片手がキサへの拘束で埋まっているせいだろう、歯で手袋を脱ごうとしながら、クラウディオは器用に喋る。

「喋るんが面倒や。理由なら、俺の指から読み取ればええやろ」
「御前――ッ!!」

 当然その発言はキサの怒髪天をつく訳だが――脱いだ手袋を噛まされて、怒鳴り声は全て布へと吸収されてしまった。


(帽子屋の理屈=兎の不可解)

...by Ichi Maebashi