ああ、嫌な奴がいる。
 走るキサが少しだけ速度を緩めて顔を顰めると、頭から飛び出た二本の白い耳が同時にぴょこりと揺れた。
 一本道のその脇に丸テーブルを構え、目の前に茶菓子を綺麗に積み上げて、紅茶の湯気を煙らせる。誰からなのだか、古びた手紙を顰め面で読み込むその男の紳士然とした姿が、キサはどうにも気に入らない。
「兎」
 道がこれ以外に無いのだから、通り過ぎようとしてみれば、こちらに見向きもせずに帽子屋――クラウディオが声を上げる。キサにはこれがまた不愉快だった。己にはきちんとキサと言う名前があるのに、彼だけは絶対にその二文字を呼ぼうとしない。
 手紙から顔を上げたクラウディオの紫の瞳が、モノクルの向こうからキサをじっと観察する。
「ちょっと休んでけ」
「どうして御前が俺に指図するんだ」
 声が刺々しくなるのも仕方ない。何せ自分には、こんなところでこんな男にかかずらっている暇はないのだ。姉の女王が治めるこの国をより良いものにするために、やることは幾らだってあるし、その為には時間は幾らあっても足りない。
 だからこの男は嫌いだ。一々俺のやることに口出しして来るくせに、たまに開く茶会では“お客人”の己に、むず痒いほど丁寧に接して来る。嘘臭い笑顔を貼り付けて、「マッドティーパーティーへようこそ!」なんておどける彼は特別気に食わない。
「お前、どうせまた寝とらんやろ。隈あるぞ」
 帽子屋が、白い手袋で覆った指で自分の下瞼をなぞる。子供に示すようなジェスチャーに、キサはさらに機嫌を悪くした。
「煩い、御前のところには通り掛かっただけだ」
「……ったく」
 クラウディオがため息をつき、椅子を引いて立ち上がる。そのまま下生えを踏んで近付いて来るものだから、キサは逃げようかと体を反転させかけるが、背中を晒すのは嫌だった。毅然と睨み返すと、帽子屋はその名前の由来であるシルクハットを静かに脱いで、
「!?」
 そこまで見て瞬きをした次の瞬間、キサの視界が真っ黒に染まった。この不思議の国じゃ、何があったって有り得ないとは言えないが、それでも驚きが尽きる訳ではない。
「ほら、夜や。兎は寝る時間やろ」
 視界は黒に染まったと言うのに、聴覚だけがクラウディオの声に支配される。響く夜色の声を聞く内に、ようやくキサは状況を理解した。
「……何が夜だ。帽子を被せただけじゃないか」
 目元を隠すように被せられたシルクハットの鍔を指先で押し上げて、キサはその先のクラウディオを睨みつけた。
「子供騙しに付き合えるほど暇じゃないんだが」
「暇やないのは重々承知しとるけどもな」
 シルクハットをキサから外し、自分の頭の上に戻すかとその動きを目で追っていれば――帽子屋の腕が白兎の腰に周り、少々乱暴に自分の方へ抱き寄せた。
 キサが目を白黒させる内に額に落ちたのは生温いクラウディオの唇。悪戯のように、ちゅ、と大きく音を立てた。
「な……ッ何してんだ、帽子屋!」
 かあっと顔に熱が集まる。肩を突いて距離を取ろうとすれば、存外簡単にクラウディオは足を後ろに引き、何事も無かったかのようにシルクハットを被り直した。
「事実これで照れるぐらいには子供なんやから、素直に騙されとけ」
 ほら、飲むか? そう言って紅茶のポットをキサの前に突きだす。
 ――飄々とそんな風に自分を掻き回すから、この男は嫌なんだ。


(帽子屋の平生=兎の迷惑)

...by Ichi Maebashi